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◎「こんな時」だからこそ「菅は国難」なのだ

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◎「こんな時」だからこそ「菅は国難」なのだ
「国家存亡の危機に優れた指導者に恵まれたものだ」戦前の駐英大使・重光葵は敵対国首相・チャーチルをこう評した。不幸にも日本は英国がうらやましいと言うしかない。首相・菅直人批判の高まりの中で、半可通の評論家の間で、「この非常時に権力闘争をやっている時か」と言う発言がテレビでたびたび発せられている。しかしなぜ「菅は国難」「菅そのものが大災害」という合唱が生じているかについては分析しようとしない。評論家やコメンテーターは、与野党の政治家がこれほどまでに批判する理由を見極めていないのだ。その理由を一言で言えば平時でも危ない菅が首相では、非常事態においてはなお危ないのだ。その危機感が政界に共通してきているのだ。単に「権力闘争」と形容するのは皮相的かつ通俗に堕している。
 この際、野党のあからさまな菅批判は脇に置いて、だれがみてもまっとうな判断を下す人物の菅評をまず紹介すれば、元官房副長官の石原信雄の発言だ。「自ら東電に乗り込んで注意をされたが、最高指揮官は一歩下がって全体を見ながら判断を誤らないようにするのがよかった。対策の遅れにつながったことは否定できない」と述べたのだ。菅が3月15日に東電に乗り込んで怒鳴りまくったことを批判している。ヘリによる現地視察と併せて、明らかに原発対応の初動を遅らせたとしか言いようがない。温厚な石原から人を批判する発言を筆者は聞いたことがないが、その石原をしてここまで言わせたのはよくよくのことであろう。民主党幹事長・岡田克也は「一段落したら検証する」と述べているが、この国家危急存亡の時に「一段落」を待ってなどいられないのが、政治の実態なのだ。
 何代もの首相を見てきた石原が言うように、危機における指導者は自らが先頭に立って動くべきではない。古来、国主が先頭切って突撃すれば、討ち死にの確率が高く、討ち死にすればその国は戦に破れたことになる。菅は長年野党にあって、政権の追及だけに専念してきた政治家であって、行政のトップとしての政治力は未知数であった。しかし首相になったときからリーダーとしての“馬脚”は現れ始めていた。いくら何でも消費税増税を参院選挙のテーマにしては、政党としての民主党はたまるまい。結果は「衆参ねじれ」となり自らのよって立つ基盤を危機に陥れた。このピントのずれが「菅政治」の根底を成している。
 大震災後の発言から首相・菅直人の適性を判断すれば、「東日本が潰れるというようなことも想定しなければならない」「30年間住めない」といった発言は、首相たるものが決して口にしてはならない発言だ。なぜなら、ピントが狂っている上に国民に希望を与えるべきリーダーが、逆に絶望の淵に陥れるからだ。あらぬ“風評”を招いてしまう発言でもある。リーダーの最大の要件はその姿を見ただけで国民が“安心”しなければならない。ところが菅は震災当初から悲観主義に貫かれてしまっているのだ。チャーチルは「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。」と述べている。悲観主義者では危機の時に国民をリードすることはできないのだ。国民は姿を見ただけで安心するどころか、菅に運転を託しては、いつ“大事故”を起こすかと不安を覚えるだけであろう。
 会議の乱立は官邸をパソコン機器の“たこ足配線”のようにしてしまった。どこがどうつながっているか分からないまま、あちこちでショートを起こしている。船頭多くして船山に上るだ。阪神大震災の時は震災関連法16本のうち半分の8本が約40日で成立したのに比べ、今回はいまだに何一つ成立していない。復興会議議長人事も二人から断られた上に防衛大学校長・五百旗頭真を任命したが、驚いたことに五百旗頭は、まだまともな議論も始まらない会議冒頭の時点で、増税を口にした。「国民全体で負担することを視野に入れるべきだ」と震災復興税を唱えたのだ。それも職業柄なのか横柄な上から目線での発言である。明らかに菅が五百旗頭をして言わしめている“裏操作”の存在を感じさせる発言である。事前打ち合わせで直接指示したか、少なくとも菅はそう発言することが確信できるから任命したかのいずれかに違いない。かねてから失言癖のある五百旗頭は「阪神大震災の被災がかわいく思えるほどの、すさまじい震災だ」と就任早々馬鹿な失言をしているが、そもそも増税は政治の最高判断を要するマターである。諮問機関の議長クラスが議論もせずにリードするような事柄ではない。菅は増税路線を取るならとるで、自ら国民に向けて訴えるべき問題であろう。自分の姿をみせずに“操る”のでは、ますます国民は信用出来ないではないか。
 野党との大連立も、いきなり谷垣に電話して「あなたは責任を私と分かち合うつもりがないのか」では成るものもならない。渡部恒三構造が「あの場面は菅が『今は与党だ野党だといっているときではない。私が副総理になるから協力してくれ』という場面だった」と漏らしているとおりだ。ことの運び方が分からないうえに、自らの言動の“効果”を推定できないのだろう。
 石原信雄は菅と会った後、「非常に疲れておいでのようで心配だ」とも述べたが、17日のクリントンとの会談で姿を見せた菅の姿はまさに疲労困憊で一挙に10年も年をとったような印象を受けた。一回りも二回りも小さくなってしまったのだ。大震災直前に外国人の政治献金が発覚、進退窮まったのが菅の姿だったが、現在の重圧は震災前の比ではあるまい。毎晩ブラックホールに吸い込まれるような感覚に陥って睡眠もとれないに違いない。政界だけではない。国民も見限っている。18日付朝日新聞の世論調査によると大震災への菅内閣の対応を「評価しない」が60%、「評価する」16%。原発事故への情報提供は「適切でない」が73%、「適切だ」が16%という結果だ。もはや「こんな時に」ではなく、「こんな時だからこそ」首相は交代すべきという段階に陥ろうとしているのだ。
 


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