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◎小説「坊ちゃんとやりて爺婆(じじばば)」

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◎小説「坊ちゃんとやりて爺婆(じじばば)」   杉浦正章
 やり手爺さんが門前で大声を上げれば、蹴鞠(けまり)をしていた公家の坊ちゃんが「おじゃるおじゃる」でなく「おっしゃるおっしゃる」とうろたえる。口から生まれた“井戸端やり手婆さん”が「出て行くわよ」とすごめば「お引き留め申し上げる」とすがりつく。オロオロするばかりのやんごとなきお方が、痩せても枯れても世界第2の経済大国のかじを取っている。海の向こうからは「信用してくれと言っただろう」と借用証文の取り立てが厳しい。おたあさま(御母様)からの秘密のお手当11億円を「ボク知らな~い」「おっどろいた~」で逃げ切れると思っている。この連立公家政権は小泉純一郎ではないが「持つのかな」と思えてきたのである。
 連立といっても社民党が衆参で12人、国民新党が8人の超ミニ政党。海千山千のやり手爺さん・亀井静香も、やり手婆さんの福島みずほも最初は借りてきた猫のように大人しかった。それがいったん要求が通り始めると知ると、その確保した地歩からさらに過大な要求を繰り返すようになる。それが政治の世界だ。亀井は郵政法案、モラトリアム法案で言い分が通ったとみるや、こんどは第2次補正予算案でごねまくったあげく、「私が政府だ」と宣(のたもう)た。一方でお坊ちゃまのご機嫌を取ることも忘れない。焦点の普天間移設問題で「来年の参院選挙後でいい」とくすぐりをかけ、ばかなお坊ちゃまはこれにすぐ乗る。やり手爺はうまいものだ。
 猫も殺さぬ顔をしたばりばりの反米社会主義者・みずほ婆さんは、普天間移転で「重大決意」と言ったとたんに、おぼっちゃまがよろよろと倒れそうになったのを見て、しめたと思ったのだ。みずほは、はっきり普天間移転反対で言動をを顕わにし始めた。今は世界中でも珍しい反米社会主義者の本性を、山姥(やまんば)のように現し始めたのだ。山姥の研ぐ出刃包丁は怖いのだ。お坊ちゃまは、やり手爺とやりて婆にいいように操られて行く。カネに不自由なく蝶よ花よと育てられると恐らく人間というのはこうなるのだろう。自分というものがない。「アメリカも、社民党も、沖縄県民もみんな大事だよね」と言ってくれても、小学生でも「わかってら~い」と言うだろう。
 一方で野武士の親方のような小沢一郎も、政治のプロだから「お坊ちゃまじゃあ持つかな」と思い始めたに違いない。「数はあるから差し替えればいいや」これが小沢政治だ。しかし通常国会前に連立が壊れるのだけは避けたい。なぜなら面倒くさいからだ。「面倒くさ政治」これが小沢政治の本性でもあるのだ。数さえあれば臨時国会でやったように、いつでも強行採決できる。数がないとあの手この手を使わなければならないから面倒くさいのだ。心臓病の小沢は速戦即決でないと体が持たないのだ。だから参院選で過半数をとって、本当はやり手爺とやり手婆を「出て行け」と言いたいのだが、いまはじっと我慢しているのだ。だからお坊ちゃま政権は辛うじて維持されているのだ。
 思案にくれたお坊ちゃまは、知己でもない外国の指導者にまですがりついた。元ソ連大統領のゴルバチョフに「マスコミなどから批判されている」と弱音を吐いたのだ。本物の百戦錬磨のゴルバチョフからみれば「なんだこりゃ。日本の指導者はこんなにヤワか」と言いたいところをぐっとこらえて、紳士的に「それに耐えていくのが指導者の務め。耐えなさい」と、言ったのだ。耐えよと言われても、これからは分からんのだ。年末にかけて普天間決断、鳩山献金疑惑、来年度予算の年内編成と超ど級大地震が連続して起きる。お坊ちゃまでは誰が見ても荷が重すぎるのだ。政権発足100日もたたないのに、状況は行き詰まり状態であるのだ。師走の闇は濃い。一寸先は闇なのだ。 
  


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